センシティブ元年

 自分が自意識過剰なセンシティブ人間であることに気づいたのは意外に遅く、大学生になって数か月してからであった。

 17歳の頃の僕は、おそらく高校生としては平均的かそれよりやや角度を増した程度の尖り方をしていたので、大人に、先生に、社会にどんどん噛みついていくぞ、という気持ちでいた。しかし意外にも将来設計は冷静で、つまり19歳かそこらにはすっかり丸くなって数年後には「普通に」就職をして中流階級として「普通」に生きていくのだろうと半ば諦観的であった。とりあえず勉強してそれなりの大学に入ろうと思い、何とか入学することが出来た。

 「普通」に生きていくのが、もしかすると自分には困難かもしれないと気付いたのは大学に入学して数か月後、バイトを始めてからであった。周りが「普通に」できているらしいことができないし、少し怒られたくらいですっかり心が折れてしまう。そこから僕の思考はどんどん悪循環に陥り、3ヶ月後にはすっかり神経が立ってしまって過呼吸を起こし、バイトをやめてしまった。

 大学1年の夏、僕はこの時ようやく自分があまりに脆い人間であることに気づいた。

 多分多くの人は中学生かそこらで済ませているであろう初歩的な悩みをこの歳になってようやく経験したはいいが、しかしその手のつまづきは遅ければ遅いほど取り返しのつかないものとなるらしい。さらに最悪なことに、17歳の僕の予想に反して僕の尖りは治ることなく、むしろ角度を増していった。就職は無理だろうな。

 幸いにして、高校の頃から仲良くしていた友人も大学に入ってからすっかり心が折れてしまっていたようで、この手の悩みは共有することが出来た。というか、高校の頃から僕と似たもの同士だったという事実は、この同時多発心労の伏線として十分であろう。

 それからは、これまで毛嫌いしてきたエッセイや小説を読むようにしたり、似た者同士話したりすることで自分の主観から離れて自分自身を相対化できるようになってきたので、少しずつ具合はよくなってきた。大学を出てからはきちっと就職して生涯企業に雇用されないといけない、という自分の中にあった絶対的価値観はある程度崩すことができたし、これによってかなり気は楽になった。

 現時点の考えは文字に起こすことで整理されると考え、ある種の備忘録としてこのブログを残すために、書いていきたいと考えている所存です。

「普通の人」のコスプレ

どうして美容室に行けないか 

 僕は19歳になるまで、およそ美容室と呼ばれるところに行ったことがなかった。最大の理由は持ち前の自信のなさと自意識過剰によるもので、要するに「別に顔もよくない、お洒落なわけでもない自分が美容室に行ってどうするんだ。」という意識によるものだ。どうせ俺は1000円カットで十分な人間だ、という卑屈さである。

 この意識は何をするにもついてきて、このために、それなりの服屋にもご飯屋さんにもカフェにも入ることができずにいた。ユニクロで服を買い、丸亀製麺ですだちぶっかけうどん(一番安くて美味しい)を食べ、ミスドポンデリングを食べていた。

 

 が、ある時悪循環に気づく。つまり、髪を人並みにしないと人並みの服屋に入る勇気が出ないし、人並みの髪型と服を持ち合わせていなければお洒落なカフェには入れない。これらの場数を踏んでこないと自信はついてこない。少なくとも「普通の人」はみんなそうしている。「普通の人」は、意識的か無意識的か、このフェーズを中高生の間に終えているに違いない!

「普通の人」になるということ

 元々周囲の人間について偏見のまなざしを向けてしまう(ミニマリストを公言する男はセックスに執着がないふりをする、スティッチのモノマネをする三軍女子大生は喘ぎ声が大きい、etc)僕にとって、今更、無意識的に「普通の人」になることは容易でない。タネ明かしをされた催眠術に自らかかろうとするようなものである。

 

 そこで一つの発明?をした。「街によくいる人」のコスプレをするという発想である。意識的に普通の人になりきる一つの方法である。

 「今この服を買おうとしているのは自分自身ではなく、くるりファンの大学生のコスプレをするためだ」「張り切って大学デビューするも脱皮しきれず結局元の姿に戻ってしまった2回生みたいな髪型にしよう」という具合にすれば、気軽に「街にいる人」に、つまり自分では何の責任も背負うことなく「普通の人」に(少なくとも周りからはそう見えるであろうように)なることができるのだ。

(「普通の人」は大きなコミュニティーの相対的多数を占める人達の総称であって、最小単位である個人として「普通の人」は存在しない)

 センシティブなのに一丁前にプライドだけは高い「自分」そのものを変える必要なく、社会人としての常識ある振る舞いを獲得するための一つの方法だと思っている。自意識を傷つけずに生きていくためのやさしい防御方法だ。

 

 

 場合によっては、自分の要素をいくつか挙げてみて、「自分とよく似た関心を持つ大学生がしてそうな格好」をすることである種の自己表現をすることもできるかもしれない。

 「なんとなく好きな格好をして楽しく生きることができる人」にしてみればなんのためにそんな回りくどいことをするのかと思われるかもしれないが、これは多分直接自分自身を否定されることへの恐れからくる、周囲と自意識の緩衝材のようなものだと思う。「こいつの感性は変だ」と思われるかどうか、一度他の人になりきって試してみる。周りから見れば結局は同じことかもしれないが、あくまで自分の中で許容できるか否かの問題である。

 素の自分をさらけ出すのが恐ろしい人は、自分によく似た人のコスプレをすればいくらか気が楽なように思う。

 

 街によくいる人のコスプレといえば、細かすぎて伝わらないモノマネ選手権でそんなネタをやっているような人がいた気がする。「地味ハロウィン」というムーブメントもネット上に存在している。

 地味ハロウィンをはじめに思い付いた人(と早くから共感していた人達)、社会生活を送り辛いほどセンサーが敏感でユーモア溢れる人達だろうけど、もしかしたら普段から「街にいる人」のコスプレをしているのだろうか。

 今の関心ごとは、「地味ハロウィン参加者の普段着」である。